
こんにちはakihiroです。
今回は加賀百万石・前田家14代の居城金沢城の紹介です。
金沢城の情報はこちらのサイトから
金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地帯である小立野大地の先端に築かれた平山城で、本丸の標高は60m、城下町の標高差は約30m程度となっている。本丸・二ノ丸・三ノ丸・新丸・金谷出丸とこれらを取り囲む塀の範囲で、総面積は約30ヘクタールに及ぶ。

城となる前は、1546年浄土真宗の僧、大坂本願寺の10代証如によって創建された、本願寺の末寺「金沢御堂」が始まりと伝えられている。浄土真宗本願寺派は全国各地で織田信長軍と戦いを繰り広げたが、1580年織田信長の部下柴田勝家が金沢御堂を陥落させ、勝家の甥である佐久間盛政が金沢城主となり城の整備に当たった。
▼金沢城公園。加賀藩前田家の居城跡につくられた、一般に広く開放された歴史的空間。復元された菱櫓や石川門など、重要文化財も多く残る見どころ多い観光名所。


本能寺の変で信長が没すると、盛政も勝家とともに秀吉に敗れ、秀吉に仕えた前田利家が1583年に入城した。利家は城の整備を着手し、天守の創建や周辺の石垣、大手門の建築など金沢城と周辺を整備した。1598年に利家の長子利長が城主となり、以降加賀・能登・越中3カ国を領し、江戸時代を通して最大の大名であった加賀藩前田家14代の居城として発展した。

幾度もの火災による焼失により再建されない建物も多かったが、現存する石川門と三十間長屋は江戸時代に再建されたもので、重要文化財も多く残り、鉛瓦や海鼠壁など金沢城の特色をよく表す建物である。近年再建された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の壮大さ、また本丸園地付近で感じられる豊富な植物や動物など、見どころが満載。明治維新を迎えると藩主は城外に移り、城は軍用地となった。第二次世界大戦後は金沢大学の城内キャンパスとして利用されたが、大学移転後の2001年に県営都市公園として一般に開放されている。
▼三十間長屋。倉庫として使われた建物で、土台の石積みは切石積みであるが表面の縁取りだけを揃え、内側を粗く残す金場取り残し積みという技法が用いられている。

1631年寛永の大火後、二の丸に千畳敷と形容される豪華な御殿が建てられ、藩庁として利用された。元禄年間の増築で拡充されたが、儀式の場である「表向」、殿様が日常政務を行う「御居間廻り」、妻子や奥女中の生活の場である「奥向」という三つの空間に仕切られていた。「二の丸御殿」の本格的な復元工事が始まり2033年の完成を目指す。

橋爪門は1631年の大火後に整備された二の丸の正門。高麗門形式の一の門、石垣と二重塀で囲まれた枡形、櫓門形式の二の門からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていた。1808年の二の丸火災で焼失した後、1809年に再建された姿を復元している。

▼橋爪門。二の丸への正門として最も格式の高い門で、枡形は城内最大の規模を誇る。石川門・河北門とともに金沢城三御門と呼ばれている。

▼橋爪門続櫓。天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていた。その二の丸の正門である橋爪門を見下ろす位置にある物見櫓。

橋爪門は、二の門の内部に番所が置かれている。二の門櫓(二階)への出入りは、番所内に設けられた急勾配の階段から出入りしていたと考えられている。中には畳が敷かれ、門の通路側は板戸になっている。

▼内堀石垣。二の丸を防御するために設けられた堅固な構造を持つ遺構。

▼五十間櫓。菱櫓と橋爪門続櫓を結ぶ多門櫓。武器等を保管する倉庫として使用されていたのに加え、非常時には城壁の役目も兼ね備えている。

▼菱櫓。建物の平面が鈍角100度・鋭角80度の菱形の平面を持つ3重3階の物見櫓。視界を広げて見張りやすくし、敵の侵入を防ぐ二の丸の守りの要であった。

金沢城正門河北門。金沢城三の丸正門が河北門。橋爪門、石川門とともに三御門と呼ばれ、御殿に至る要所を固めていた。いずれも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた枡形門型式の城門である。中でも河北門は、大手筋の要所を防備する重要な門だった。
▼河北門。橋爪門、石川門とともに三御門と呼ばれ大手筋の要所を防備する重要な門だった。1759年の大火の後再建されたが、1882年に撤去。2010年に復元された。

河北門の2階の櫓部分は見学ができる。


石川門は金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火の後、1788年に再建され現在に伝わっている。 昭和25年国の重要文化財に指定された。

同じ場所で違う積み方をした珍しい例で1765年の改修時のものと考えられる。文化年間に書かれた文書には、左右違い分けて積むのはおかしいなどと記されており、石垣の積み方にもこだわりがあったことがうかがえる。
▼石川門。同じ場所でも石垣の積み方が異なる。石を隙間なく積む切石積みと、形や大きさを揃えて積む粗加工石積みの技法で珍しい例である。


鼠多門は、石垣の間に設けられた大扉の上に櫓が、石垣の間に設けられた大扉の上に櫓が作られる櫓門形式の城門である。屋根は鉛瓦葺き、腰壁には海鼠壁が用いられているが、目地が黒漆喰で仕上げられることが特徴である。江戸時代前期にはすでに存在し、1884年に火災で焼失した。鼠多門は、水堀に架かる城内最大規模の木橋で、幾度かの架替えをして1877年まで存在した。現在の門と橋は2020年に復元整備された。
▼鼠多門。海鼠壁の目地が黒漆喰(くろじっくい)で仕上げられており、石垣の上に2階建ての櫓を構えた構造となっている。


▼大手門。大きな櫓台の石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料はなく、屋根付きの門が設けられていた。


